皆さまおはようございます🐹
先日こんな記事を書いたんですけど
「誰かの役に立ちたい」なんて表明したら
逆に何も書けなくなってしまいました(笑)
ここ最近は、頭の中で「あのこと書きたい…」
「これについて書きたい…」とは思い浮かぶものの
「でも良い表現で書けないし…」と思ってしまうので
結局何も書かない、の繰り返しでした💦
なので、やっぱりしばらくは原点に戻り(?)
自分が思いついたことをただただ
自分のために書いてみようと思います。
昨日の夜にYouTubeをダラダラ観てたら
チャンネル登録もしてないし広告でもないのに
フィードに上がってきた動画があって
やけに惹かれたので観てみました。
それがニューハーフの女の子の
手術の様子とか生き方についてだったんです。
なんて壮絶なんだと思いました。
術後に“おしっこ訓練”というのを
しないといけないらしくて
「トイレでやっとおしっこできた泣」と言って
その女の子は喜びの涙を流していました。
それを観たときに、おしっこができるって
なんて幸せなんだろうって。。
わたしは公衆トイレとかでも
当たり前に女子トイレを選ぶけど
それも幸せなことだと思いました。
なかには本当に入りたいトイレが違くて
日々思い悩む人もいると思うから。
性同一性障害に限ったことではなく
世界を見るとわたしたちの当たり前が
当たり前じゃないんだとハッとします。
わたしたちは布団かベッドが大半だけど
世界には藁で寝てる人もいるし。
まぁわたし学がないから
そのへんの世界情勢とかは
知ったかぶりで語れないけどね💦
わたしがまだ20代のころ
母と母の彼氏と住んでた家が
電気やガスが未払いで止まったことがあって…
そのときはわたしも今より若くて
マジで人生終わってるとか思っちゃったけど
たとえライフラインが止まっても
公園に行って水飲み場の蛇口ひねれば
お水が出てくるんだよね。
そういうこと。
ないものにフォーカスするより
あるものにフォーカスしていたい。
苦悩も幸せも落ちているなら
幸せを拾って生きていたい。
最近胸を打たれたのはこの曲です。
酒好きの人には忠告するけど
呑んでるときに聴くと涙必須なので
場所にはお気を付けください…←
ただね、わたしが常々言っているように
下を見て「あぁ~自分はまだマシなほうだ」って
思いましょうということではないの。
そういう話ではないの(>_<)
たとえばうちの家系は障がいや寝たきりなど
ハンディキャップがある家族も多くて
従妹の一人は女の子として生まれて
それこそさっきの話じゃないけど
性同一性障害でタイで手術を受けてきた子なんです。
(だからこそ他人事だとはまったく思えない)
でも自分にもリマインドしたいし
人にも伝えたいのは
マイノリティーの人だけが
そういう苦悩を抱えるわけじゃないってこと。
苦悩って誰の人生にもあるってことなの💦
たしかに従妹を含めてマイノリティーの人は
“現実の自分”と“思い描く自分”が一致しなくて
苦しい思いをすることは多いかもしれない(´;ω;`)
だけどそれってわたしたちも
日々抱えることなんじゃないかな?
たとえばわたしなら、義母に
「あんたの家庭環境は普通じゃない」
「育ちが悪い、親の躾がなってない」
などと言われてきて
そんなにわたしってダメなのかな?
これがありのままの自分なのに
義母がいう“正しい嫁”にならなきゃいけないの?って…
本来の自分と、誰かの理想の自分
というギャップがずっと辛かった。
わたしだけじゃなくて
男の人や若い人、年齢いった人でも
そういう方はたくさんいるんじゃないかな。
人魚姫が王子様に恋して
“人間になりたい”と願ったように。
いまの俺じゃダメなんだ
いまの私じゃダメなんだって。
『何者かにならなきゃ』って
もがいたり心が苦しくなってしまってる人は
マイノリティーでもそうじゃなくても
一定数いるんじゃないかな。
だから当人たちも「自分がこんなだから」
なんて特別視しなくて良いし
周りも彼らを特別視しないで、と思う。
もちろんこの世のいろんな仕組みが
多数派に寄せてあるから困難は多いと思うよ。
でもそこを助け合えたり、周りが
痛みを引き受けることが大切な気がする。
具体的に何かの制度を変えたり
支援することは難しいかもしれないけど
一緒に考えよう?って言ってくれる人が
一人でもいたら気持ちが違うと思うから。
心理的に“痛みを引き受ける”ってことも
必要なんじゃないかなって個人的には感じます。
というボヤキ。。
今日は大好きなお友達と
辛いラーメンを食べに行くので
とっても楽しみです♪
それではまた♡
皆さまにとって
素敵な週末になりますように(*^^*)